May 25, 2013

「但馬方言第3弾は語源」〜但馬学5月例会

130525_hogen1

「但馬弁ってあるのだろうか?」「但馬の中でも山ひとつ越すと違う言い方しているね」「昔と今とで使う言葉がどんどん変わってきたね」などと会員同士の興味から今年度のテーマは「但馬の方言」となった。

実際に始めてみると、あまりにも身近すぎて返ってそれを知る・学ぶことがとても難しいことが解る。そこで、但馬の方言を研究されている谷口裕さん(豊岡市立港中学校教諭)に三たび講師をお願いしました。

谷口先生のプライベートなライフワークとして但馬の方言を調査し、それを体系化してご自身のホームページで情報発信をされている。

今回のテーマは「語源」。いつ頃、どこから来たのか?始まったのか?

しかしながらなかなか体系化されている文献はないそうだ。言葉は生き物。時と空間を越えてどんどん変化していく。それを捉えるのはなかなか難しいことなんだと改めて感じる。

130525_hogen2

谷口さんは、但馬の代表的な方言をアイウエオ順に説明してくださいました。1時間以上経ってもまだア行。事例がとても面白いのでなかなか進まない。まさに終わりなきテーマですね、方言って。結論があるわけでもないし、と言うのが私の感想でした。

以下、私なりに面白い、と思った方言の一部を書き出してみました。

あかい  → 明るい     (鈴鹿山脈以西)
あじこい → 美しい、きれい
あはあ  → 阿呆
ありこまち→ あるだけ全部
いか   → 凧       (いかのぼり)
行きた  → 行った     (上方、江戸も)
いぬる  → 帰る
えむ   → 実がはじけて出て来る
えらい  → だるい、苦しい
おけんてい→ そうでないのに、それらしく振る舞う
かだら  → 身体(からだ)
がっせい → いっさいがっさい (合才=がっせい)
かわいい → 可哀想
こーじゃげ→ 大きく見える   (口才=こうじゃ)
ごんたくれ→ 暴れたり周囲を困らす(義経千本桜のいがみの権太より)
しゃっても→ 必ず
じょしゃねえ→ 抜け目ない   (如才)
たらし  → おやつ
びく   → 小娘      (比丘→比丘尼←サンスクリット語)
ひろーす → がんもどき   (ポルトガル語)
ぼいやこ → 鬼ごっこ
よーさり → 夜 

【参照】但馬方言のページ
谷口裕氏運営サイトをぜひご覧下さい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 23, 2013

「但馬の平家落人伝説はウソだらけ?」 但馬学3月例会

130323_yamaguchi1

今日は但馬学の3月例会。城崎温泉(兵庫県)の城崎文芸館で行なわれました。テーマは「但馬の平家落人伝説はウソだらけ?」。講師は、すでに但馬学では数度お話を聞かせていています山口久喜(ヒサキ)先生です。近年まれに見る面白さ、明快さ、とても充実した例会となりました。

結論から述べると、「但馬の平家落人伝説はすべてウソ!」と明快な山口先生の答え。但馬どころか全国150ほどある落人伝説が偽りであるとおっしゃる。(但馬には40カ所もある)

その根拠は、そうである明確な資料がない事、言い伝えの墓石、神社などを調べても年代が200年もずれているもの、年代と事実が後先になってあり得ないものなど、実地の調査も詳しくされている。

では、「なぜかくも多くの平家落人集落(伝説)があるのか?」について説明がある。

1つ目は「怨霊信仰」。当時流行った疫病、天災などが恨みを持って死んでいった者の霊として恐れられ、逆に霊を鎮めるために人々はそれを祀る「御霊信仰」へと変わった。菅原道真を祀った北野天満宮。同様に平家を怨霊を祀る。

2つ目に「貴種流離譚」。僻地に住むが、好き好んで住んでいるのではない。自らは昔、貴人の子孫であり、平家の武将だったと認識し、その地に住む理由とした。

3つ目は「平家語りの普及」。琵琶法師により平家や安徳天皇の鎮魂のために詠われていた。

4つ目は「逆修信仰」。生前にお墓を建てる事を逆修といい、平安時代には貴族、鎌倉時代には武士、室町時代には経済的に向上した庶民などに広まったこと。落人伝説のある村の墓石などを調査すると伝説と書かれている内容が一致しないものが多い。

などを根拠としている。

ではなぜそれほど多くの山村、漁村に平家ゆかりの伝説が残っているのでしょうか?仮にそれ(平家の落人集落、伝説)が真実でなくても、そう語り継がれるのはなぜなのか?

それは生活に困難な立地条件、厳しい自然環境、集落が一致団結して営んで行かなければ成り立ち得ない情況。まさにそこに定住していくための知恵だったのではないだろうか。

私は、歴史には「真実かウソか」よりももっと大事なものがあると言う思いに至る。そう信じる当時の人々の心情こそが「歴史」から学ぶものである、と。それが真実であるなら尚更である。

| | TrackBack (0)

February 23, 2013

「但馬の方言におけるアクセントとイントネーション」〜但馬学2月例会

130223_minatoben1

今年度の但馬学のテーマは「但馬の方言」。今月は豊岡市港地区の方言を題材に方言を考える(感じる)ことにしました。

130223_minatoben4

使用したのは2006年(平成18年)に編集された豊岡市港地区公民館発行の「みなと弁〜残したいふるさとの方言」と言う冊子。

この冊子編集の経緯は「はじめに」の中に書かれている。「方言を使うと田舎者扱いにされ、極力避けて標準語で話そうとする雰囲気もあった。私たちの周りからもみなと弁が消えはじめた。」と言う危機意識から、地区の長老が集まって1年掛かりで編集されたもの。

130223_minatoben2

講師(読み聞かせ)として今回は、増田恵子さんにお願いをしました。増田さんは豊岡市港地区に在住、元FMジャングルのDJ、現在は保育園のスタッフとして園児達に読み聞かせをされている。謂わば、しゃべりのプロ。

130223_minatoben5

「浦島太郎」をみなと弁で語ったらどうなるのか?増田さんのみなと弁で物語をしゃべってもらいました。

「むかしな、海辺の村に、浦島太郎というわきゃーもんがおった。」
「こらぁ、そんな事したったら、亀がかやーさぁげだにゃぁかいや。にぎゃーてやれ」
「おみゃーも、こぎゃあなとこにくるで、ひでえ目にあうだわ。はやー家にいね」
「龍宮城へようきてくんなりました。こにゃあだ亀を助けてくんなったお礼に、ごっつぉうをようけこしりゃーてまっとりました。どうぞ、ようけくってくんにゃあ」
「どえらいごっつぉうになりましたが、まぁまた村にもどりてゃぁので、これでしゃあならしますわぁ」

130223_minatoben3

「みなと弁」聴いた後は、会員それぞれの地区ならどう言うのかそれぞれで方言を披露。一言で但馬の方言と言っても微妙にちがうのが面白い。

今回の例会の世話役でもある岩本くんがイントネーションが音程7度、オクターブあがることばをコントラバスで表現。みなと弁とコントラバスの競演とまではいかなったけど、音階で方言を分析してみるのはとても面白い発想でした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 22, 2012

「但馬の方言」〜方言は深くて広いので簡単にはレポートできないのだ

120922_tajimaben1

今日は但馬学の例会日。今年度のテーマは2つあって一つは「平家の落人伝説を追って」ともう一つが「但馬の方言」である。

で、今日は「但馬の方言」がテーマである。しかし、私は「知る」のか「分析する」のか「調べる」のかまだ自分の中で定まっていない。そんなイロハのイから始まった気分である。

講師は、地元豊岡の出身で中学校の英語教師をされている谷口裕さん。趣味で方言を研究されている。まずは日本の方言の分布図から説明していただいたのが、私にとってはとても良かった。

但馬は関西にあるが、東京都同じアクセントのエリア(乙種)に属す。昔から関東に行くと「関西弁じゃあないね」とよく言われたが、それはそうなんだとガッテン。

120922_tajimaben2

但馬と言っても「北但」「南但」があるし、西は出雲・鳥取の影響が、東は丹後、丹波の影響も受ける。そもそも「但馬弁」と言う表現は当たらない。但馬にはさらに細分化したそのエリアの方言、訛りががある。

例外はあるが、大きく分けると養父市の真ん中に東西に線が引ける。八鹿、関宮は北側、大屋、養父町は南側。

具体例をだしたいが、あまりにも身近すぎてどう説明したらいいのやら。やはり、喋っているのを聴いてもらうしかない。

但馬学として継続的な課題とする。

(まるっきり方言が出て来ないレポートとなりました。)(^_^;;

まずは谷口先生のHPでこの「但馬方言番付表」でも見ながら、ご自分の身の回りで拾ってみて下さい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 05, 2012

「どこかから来てどこかへ消えてゆく」〜山田風太郎の世界

120603_futaro1

5月の但馬学例会では「山田風太郎記念館」を訪ねた。但馬出身の作家として、本来もっと知っていてもよさそうなもんだが、と自問していた山田風太郎。今回はしっかりとその人となりをしる良いチャンスだとおもって楽しみにしていた。

120603_futaro2

1922年(大正11)、兵庫県養父市関宮町生まれ。医者の家に生まれ東京医科大学に学ぶが、学費を稼ぐために書いた探偵小説が入選。以後多くの雑誌に投稿し賞金を得るようになり、ついに1950年(昭和25)には執筆活動に専念することになる。

120603_futaro3

例会の講師は当館の副館長である有本倶子(ともこ)さん。

そもそも地元出身の有本さんが山田風太郎のエッセイ「風眼抄」を読んで感動したことから記念館の設立が始動する。地元の誇りとして広く人々に山田風太郎さんを知ってもらい、その魅力を紹介していこうと有本さんが地元の賛同を得るために東奔西走し、また生前の風太郎本人にも会い、ついに2003年(平成15)に完成。

記念館には、山田風太郎の作品、生前使用したデスク、少年の頃のノートや資料、衣類、多数の家族との写真などが展示されている。

120603_futaro4_2

私の目を引いたのは「達徳」。これは私の母校・豊岡高校(当時豊岡中学)の校友会雑誌。絵も上手だった風太郎の絵が表紙を飾り、詩や小説も掲載されている。

120603_futaro5

新校舎建設のために取り壊される前の校舎の写真がある。私はこの時建った新校舎で学んだのだと感慨深い。その時取り壊されるべき校舎の一部は「達徳会館」という名で明治の建造物として今も残る。

120603_futaro6

風太郎の生家。集落から小路を少し登っていったところにある。土壁の立派な塀に囲まれている。

120603_futaro7

幼き風太郎が遊んでいた近くの神社。(関神社) 後の時代小説、忍法帳などの諸説の中で、この神社の境内で遊んだ時の記憶が登場するという。

医学生として故郷を離れ東京へ出発して以来、ほとんど故郷に帰ることのなかった山田風太郎。無くなる直前まで、その幼少の頃の記憶は鮮明に残っていたという。

記念館と生家は徒歩5分もかからない。隣家が造り酒屋で、当時の家並みを残す閑静な集落を散策するのもとても気持ち良い。

ぜひ、一度訪れて、山田風太郎の「風」に吹かれてみてください。

山田風太郎記念館
兵庫県養父市関宮605-1
tel:079-663-5522

 

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 28, 2012

「出石鉄道よもやま話」〜但馬学4月例会

120428_izushitetsudo1

快晴、3日後なら五月晴れ(^_^)

ずっと向こうの山には残雪。手前の山々は新緑がまぶしい。但馬に最高の季節がやってきた。「夏は暑く、冬は雪多し」の豊岡だからこそ、こんなに美しい季節があるんだと思う(いたい)。

120428_izushitetsudo2

今月のテーマは「出石鉄道」(兵庫県豊岡市・「江原」〜「出石」)のお話。1929(昭和4)〜1944(昭和19)年のわずか15年間運行されただけの鉄道、しかもその間に台風や地震で3回も橋梁が崩壊し運休。幻の「出石鉄道」と言っていい。

出石川鳥居地区の「鳥居のさと」で昼食をいただき、そこから出石川に向かって歩きながら出石鉄道の遺構を探訪する。

120428_izushitetsudo3

講師は永井英司氏。「今回の」プロフィールには郷土史家・森林インストラクターとあるが、生物(コウノトリ、コガネムシ)、音楽(ブルーグラス演奏)にも堪能で、以前から大変興味をもっていた方である。

山陰線江原駅前に生まれ育った私が小さい頃よく聞いた話は「出石の殿様と村岡の殿様は勢力が強く、鉄道敷設に反対(よそ者が入りやすくなる)した。そして後の世に鉄道が通った町が栄え、城下町が廃る。」実際にそうなのか?と言うのが私の個人的な興味であった。

Google Earthを使いながら全国の、ことさら関西エリアの鉄道開通を時系列で示しながら話が進む。とても分かりやすくて面白い。

1871(明治4)年に豊岡県が誕生したところから話が始まる。日本の鉄道は日清・日露戦争を戦うためのの軍鉄道ネットワークとして急ピッチに整備されたこと。

出石鉄道は日高村・村長藤本俊郎の「江原を鉄道の要衝に」と言う野望が実現の原動力になったのではないか。と言うことだが、私はその名を一度も聞いたことがない。今後調べてみたい。

短命に終わった「出石鉄道」。誰がどれぐらい利用し、経営は上手く行っていたのか、地域住民にとってその存在は大きかったのか?など、まだまだ調査を必要としていそうだ。

120428_izushitetsudo4

例会の会場となった「暮らしの学校・農楽(の〜ら)」。軽度発達障害者の支援、仕事づくりを行なっている学校。運営は但馬学のメンバーでもあり友人の木村尚子さん。ほとんどがボランティアの力により内装工事がなされ、キッチンの設備や本棚なども差し入れ。

木村さんから農楽(の〜ら)の普段の活動を聞く。子供達の未来に向けて何ができるのか考えなくてはと思う。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

February 25, 2012

「但馬地方のコウノトリ」〜但馬学2月例会

120225_kounotori1

今日は野生復帰プロジェクトが着々と進むコウノトリのお話。昨日まではぽかぽか陽気の東京にいたが、こちら兵庫県豊岡市はまだ真っ白な雪に埋もれている。

120225_kounotori2

場所は「コウノトリの郷公園」。昭和61年(1986年)に最後のコウノトリが死亡し日本国内から一旦は姿を消したコウノトリ。そのコウノトリを人工飼育し、ケージで徐々にその数を増やしながら再び野生に戻す取り組みのお話を聞いた。

120225_kounotori4

講師は松島興次郎氏。昭和40年代に姿を消し行くコウノトリの保護にあたり、最後のコウノトリの死に立ち会う。ロシアから譲り受けたコウノトリを人工飼育ながらいつか自然界にコウノトリを戻すことを信じ、国県市の支援がままならぬ時から孤軍奮闘。今日の野生復帰を果たした一部始終を知る松島氏のお話である。

松島氏のお話は現場を知るもののみが語れる示唆にとんだ感動的なものであった。
「神の領域に手を出した」
「学識者ではなく職人である」
「死ぬかもしれない時、判断できるのは自分しかない」
「『コウノトリとの約束』。それは緊急避難として自然界から飼育下に問い入れた時。いつかきっと再び野に返すと決意した。」

120225_kounotori3

野生復帰のもう一人の功労者である故・池田啓氏が撮影した大空を飛翔するコウノトリ。松島さんが一番大切にしている写真だそうだ。学術的アプローチを通じて日本及び世界の関係者の関心を引きつけ、コウノトリの野生復帰を市民レベルで盛り上げることにも尽力した池田さん。

滅亡から復帰まで立ち会った松島さんと友人でもあった池田さんが交わった瞬間だった。この逸話を聞けたのも私にとって大きな収穫であった。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 27, 2011

「座禅と茶礼を通して沢庵和尚に出会う」~但馬学6月例会

110625_takuan1

ここは圓覚山「宗鏡寺」(すきょうじ)(兵庫県豊岡市出石町)。通称「沢庵寺」と呼ばれる。

圓覚山「宗鏡寺」は臨済宗大徳寺派に属し、入佐山の麓にある。明徳3年(1392年)ごろに東福寺の大道一似禅師により開山、山名氏清により創立された。山名氏は代々禅法に帰依し、宗鏡寺は数ヶ寺の塔頭寺院を有していた。織田信長の第二回但馬征伐で羽柴秀吉により山名家が亡び、寺も荒廃したという。

110625_takuan2

沢庵和尚はこの出石町に生まれ、その多くの時間をこの宗鏡寺で過ごした。

沢庵宗彭(そうほう)。天正元年(1573年)に山名氏の重臣秋庭綱典の次男として出石城下に生まれ、幼少にして宗鏡寺に入り得度。招かれ大徳寺からやってきた春屋宗園の弟子・薫甫宗忠に師事し、その後宗忠が帰京するあたり共に大徳寺に入った。

110625_takuan3

今回の例会でお世話になる宗鏡寺住職・小原游堂(こはら ゆうどう)和尚。3年前に住職として出石にやってこられた。

小原和尚に導かれて、まずは道場で座禅を組む。何度か座禅を組んだ経験はあるが、毎回貴重な体験となる。ほんの数十分の間だが、静かに座し、心を落ち着かせて、自分を見つめるとなんとも清清しい気持ちになれる。

110625_takuan5

禅寺の懐石をいただいた後は、禅のこと、沢庵和尚のとこと、などについてお話を伺う。

沢庵和尚は、「たくあん漬け」や徳川家光の指南役、書画・詩文・墨跡など沢山残し、名前は多くの人に知られているが、意外とその人となりや足跡、業績は知られていない。

茶の湯にも親しんだ沢庵。改めてもっともっと知りたいと興味が湧く。地元出身の偉人に学ぶことは、ただそれだけでも多くのことを得る。

110625_takuan4

 

やはり最後に「たくあん漬け」をご紹介します。小原和尚が自ら漬けたたくあん。味も歯ごたえも香りも格別であることは言うまでもなし。

| | TrackBack (0)

June 15, 2011

『水物語』~水をめぐる但馬の暮らし

110530_mizumonogatari1

但馬カルチャー『水物語』(但馬学研究会・発行)の冊子が面白い。5月の20周年の記念公開講座の折に、この冊子を配布させていただいた。

但馬学の活動で「水」をテーマにして行なった例会のレポートをまとめたものである。「水と友に暮らす集落」(日高町十戸)、「水と農がつくる山村の暮らし風景」(香美町うへ山)、「山郷の水利」(大屋町)、などなどどれも懐かしい。

また、2004年に襲来した台風23号による水害のレポート。私自身が体験した「台風23号被災からの復興体験」「カヌーで円山川を下る~川の氾濫後に見えてくるものは」、古文書にみる但馬の水災害」などなど、今読んでもとても貴重な記録である。

中でも15周年の記念公開講座「地球を巡る水と我われの暮らし」(地球科学者・原田憲一氏)の講演レポートが圧巻である。

■ 地球は46億年かけて美しくなってきた
地球の誕生は46億年前。25億年前に今の大陸の原形ができ、6億年前に地球が凍りつき、5億5000万年前に三葉虫、4億年前に海の周りに緑が、2億4000万年前に恐竜の時代が始まり、6500万年前に哺乳動物が繁栄を始める。200万年前に季節変化がはっきりとし、現在の四季がはっきりとしたのは50~60万年前。

■ 遠洋漁業とは何か?
太平洋、インド洋、南北大西洋の真ん中にはプランクトンはいない。当然魚もいない。遠洋漁業は、遠洋を越えて他国の近海で魚を捕ること。つまり、魚は陸地の周りにしかいないので、漁船団は遠洋を越えて高国の近海に行く。だから国際問題化する。

■ アマゾンを養うサハラ砂漠の砂嵐
アマゾンの土は予想外に養分不足なのになぜ鬱蒼とした熱帯雨林が広大に生い茂っているのか?実はアマゾンの森林を育てているのはサハラ砂漠の砂嵐であることが1990年になってわかった。サハラ砂漠から年に2億トンもの砂が砂嵐で巻き上げられ、大部分はサハラ砂漠に落ちるが、一部が偏西風でアマゾンに運ばれる。砂埃にはカリウム、鉄、ナトリウムなどが含まれアマゾンの土壌に供給されている。

■ 土を巡る命の循環
土の主成分は砂利と粘土だが、そこに動植物の遺骸(腐植)が混じり、そうした有機物を食べる生き物がいて、団粒構造という土が無数の団子状にかたまた構造を作る。モグラやヘビが巣穴を作り、風通しや水はけを良くする。生き物たちの働きがあってはじめて土が土となる。

などなど。地球誕生から始まってスケールの大きな話、また洗剤や農薬の使用による環境汚染、温暖化の問題、エネルギー問題まで、まさに身近な問題にアプローチしていく。

今こそ、改めて学び直す時であると痛感。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 30, 2011

『芝居小屋と稲荷』〜永楽館にて但馬学20周年記念講座

110528_inari1

先日、ご案内した「但馬学研究会20周年記念事業」も無事に終わることができました。

10周年記念には、動物写真家の宮崎学氏に、15周年は記念には、地球科学者の原田憲一氏にお願いしてそれぞれ講演をお願いして、大好評をいただきました。

今回の記念講座は近畿最古の出石・永楽館で行ないました。実はテーマのお稲荷さんと芝居小屋にはたいへん深い関係があるのです。

110528_inari2

「但馬のお稲荷さんの世界」と題して講演いただく大森惠子先生。但馬の新温泉町出身で民俗学を研究され、多くの書籍も出版されている。

110528_inari3

かつては大部屋の神棚に鎮座していたのであろう永楽館のお稲荷さん。芝居小屋の繁栄と役者の技芸上達、さらに興行中の厄除けなどを願ってお稲荷さんを祀った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧