お茶のルーツを訪ねて~「ルソンの壺」の巻(広州・佛山)
ここは中国広東省の広州である。どんよりとした空は今や中国の大都市の象徴?今回はビジネスではなく「お茶のルーツを訪ねて」と言う旅に参加しました。「旅」と言ってもただの旅ではありません。「茶の湯文化学会」の会長・谷氏の私的探索の旅と言うお茶に何らかの形で関係される5名の方々に参加させていただいた。「なぜ私がここに?」との思いでしたが、そうも言ってられないので、お茶に興味を持ち茶道を学び始めた私自身にとって「お茶に対する興味、好奇心、気づきなる原体験」を期待しながら旅を始めた。
広州は約10年ぶり。最初の訪問(1990年代の?)は急速な経済成長を始めた広州市。建設中のビルが4000棟だと聞いた時は、飛び上がって驚いた。その広州は今や600万人の大都市。関空の4~5倍はありそうな大きい新空港も3年前に完成した。
今回の目玉の一つは、広州隣の佛山市の博物館にある「ルソンの壺」の見学である。現在、博物館は改築中で、臨時のビルに収蔵品は保管されていた。出発には「見られるのだろうか?」と懸念があった。
ところが、改築中が幸いして、佛山市近郊の遺跡や釜址で見つかった未発表の「ルソンの壺」や「焼き物」が手にとって観察することができた。現物の写真撮影は禁止されていたので、スケッチする同行のToku氏。(私の写真は遠めに許可をいただいた)
「ルソンの壺」は、口が小さく封がし易いので油、醤油、酢などの液体を入れる容器ではなかったかと言われている。それが、日本では「茶壷」として使用された。
「ルソンの壺」は、16世紀(日本では信長、秀吉の時代)に、大阪・堺の商人が東南アジア貿易で輸入していた陶器のひとつである。ルソン(フィリピン)からの貿易船に乗っていたので「ルソンの壺」と言われているが、実際は、途中寄港した佛山で焼かれた陶器でった。
「ルソンの壺」は、現地では日常品の壺が、日本に持ち帰ると「茶壷」として人気を呼び高価に取引され、堺の商人・呂宋助左衛門(るそん・すけざえもん)が巨万の富を築いたとされる物語である。
その焼かれたところが、この佛山市の「奇石窯」。当時、使われたであろう土。赤っぽいところではなく、白っぽい箇所の土を焼いたと言う。北宋の時代に終焉した。
しかし、北宋の時代に終焉し、現在はその「奇石窯」の史跡がだけが残っている。
「奇石窯」の釜址のすぐ傍を流れる「東平川」。滔々と流れる川の流れは太平洋に注ぎ、シナ海を通って境へと繋がっているのだ。
「奇石窯」が廃れたが、そこから数キロのところには「南風古灶」と言う窯跡が今も残っている。ここで焼かれたのであろうか屋根の瓦が美しい。
「南風古灶」の登り窯。現地では「龍窯」と言われる。龍が登るように炎上していったのであろう。
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