「出石そばのはじまりとまちづくり」但馬学6月例会
ここは出石町商工会館から眺めた出石城趾。兵庫県豊岡市出石町の中心部である。出石町は3年前に合併して豊岡市となる。私の町(豊岡市日高町)も同じく合併し、今は同じ豊岡市として10Kmぐらいの距離にある。(車で約15分)
但馬学の今月のテーマは「出石そば」。満を持して登場。と言うのは、但馬学では定説とされている事に「ホント?」と疑問を投掛け、但馬の真の姿を学び、伝えるのが使命の一つである。
「出石そば」のスタイルは決まっている。小皿に盛った蕎麦と、出汁に好みで玉子、ネギ、山芋を入れて食べる。
このスタイルになったのには、一つのきっかけがあったと言う。元々、蕎麦を盛った小皿ごとに、出汁とネギをパラパラと掛けて、1枚食べては、残った出汁を次の小皿に注ぎ、また、次の皿へ、とそんな食べ方をしていたそうだ。今では、返ってそれが「ツウの食べ方」だと言う人もいる。
そのきっかけは、昭和40年代中頃に、全国で知名度を上げるために、大阪や東京でデモンストレーションしたその時。いくらなんでも、小皿のままで次から次に食べていただくのは、どうも恰好がつかない、と言うところから、今のお椀に出汁を入れ、蕎麦を漬けて食べる姿になったそうだ。また、その時点で、生卵や山芋トロロなどが登場したそうだ。最初から「生卵でないとダメなんだ」と言うオリジナリティがあったわけではなさそうである。生卵ファンの私にとっては、もっと確たる理由が欲しかったような気も。(笑)
今回の講師は、大橋直人氏(出石町商工会長)である。ご自身も「出石そば」も提供する食堂チェーンを展開されている。
観光地化すると、ややもすれば「後付け」の由来や取って付けた話題を作り上げたりするものだが、商工会長でもある大橋氏は、歴史的な背景、流れ、そして現代至るまでの「出石そば」「出石の町」の変遷を赤裸々に語っていただいた。私は「腑に落ちた」ことがいっぱいあった。
「出石そば」を語るには、次の二つの歴史的事実と時代の潮流がキーワードとなりそうだ。
一つは、宝永3年(1706年)、信州から上田城主・仙石越前守政明が出石城にやってきた。替わりに、出石城主松平伊賀守忠徳が上田へ。お国替えである。その上田城主仙石が信州から蕎麦職人を連れて来た。その技が、在来の蕎麦打ちに加えられた。信州からの「技の伝来」は事実なのだ。ただ、肥沃な出石の地域では、蕎麦の栽培は余り適さず、蕎麦を食す習慣は一般に広まっていたわけではない。
二つ目は、昭和48年(1973年)のオイルショック以降、地域産業の衰退が加速する。丹後ちりめん、但馬ちりめん、カバン産業、建築業などの事業所や従事していた人達の転職から「出石そば」の店舗が急速に増加していった。「出石そば」での「出石の町おこし」が始まったのだ。そこに、ディスカバー・ジャパンのムーブメントが重なり、「城下町出石町」「出石そば」が全国に知られて行った。まさに、時代の潮流の産物でもある。
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