「但馬発、ブロイラー秘話」 但馬学11月例会
今日は但馬学の11月例会。兵庫県豊岡市日高町浅倉にある「但馬養鶏農業協同組合」を訊ねた。私はこの日高町で生まれ、育ったのだが、物心ついた頃から「ブロイラー産業」は身近なものであった。昭和40年代は全国一のブロイラーの生産高を誇った一大産業。
果たしてそれはいつ頃から始まったのか?なぜ、但馬がブロイラーの一大拠点となったのか?なぜ、日高町が中心地だったのか? 多くの疑問が、今日の例会で解った。とても有意義な例会となった。
まず先に、工場を見学させていただいた。当然ながら、全員、白衣と帽子・マスクを着用して、消毒室を通り、工場に向かう。窓越しに加工室を観る。胸肉、もも肉、手羽元の3つのラインが稼働。1時間に4800羽の処理能力があるそうだ。金属探知器、X腺検出機など、最新の機器で細心の管理がなされている。
今日の講師、岸田直正氏(但馬養鶏農業協同組合・代表理事/組合長)。岸田氏は、ある経営者の会で以前から懇意にさせていただいている。但馬の養鶏(ブロイラー)業界の生き字引のような方で、そのリーダーシップとシビアな経営感覚にはいつも刺激をうけている、私の尊敬する経営者である。
ブロイラーは、昭和30年代初期に国策として始まった。当時の厚生省の良質な動物性タンパク質の推奨として、また、日米の貿易均衡の策として、アメリカの余剰穀物の輸出の受け皿としての畜産振興(養鶏が一番穀物消費が多い)などによって、ブロイラーが始まった。
ブロイラー(broil=網焼にする、broiler=焼肉用の若鶏)の種は、原種のもう一つ元の原原種として、アメリカが保有し、世界のブロイラーの総元締となっている。この種は、ヒナとして大手商社や専門商社を通じて輸入され、産地で飼育されていく。
話を、但馬に戻します。
但馬は農地面積が小さい地域(農業収入が低い)、昭和30年代初期には、化学繊維の台頭により養蚕業が衰退、農家のブロイラーへの移行が環境があった。また、全国に先駆けて、但馬のブロイラーが隆盛になったのは、消費地としての京都が近かったため。京都は一人当たりの鶏肉消費量が日本一。古くから鳥肉を食べる文化があり、鶏肉を柏(かしわ)と呼ぶ。
なぜ但馬の日高町なのか? 日高町十戸の北村和雄氏が採卵養鶏から肉鶏飼育に変更し、京都市の食鳥問屋へ出荷したのが、ブロイラー産業の端緒といわれているそうだ。昭和29年のことである。
最後に会員から「地鶏」についての質問が出た。いま、旬の話題である。日本で有名な地鶏の産地は、薩摩シャモ(鹿児島県)、名古屋コーチン、比内鶏(秋田県)であり、その遺伝子が4分の1あれば、「地鶏」と見なす。ただ、検査機関があるわけではなく、企業の自主的なルール遵守に委ねられているそうだ。地鶏の飼育規模(数)は小さいことから、全国で販売され、飲食店で消費されているの鶏肉の99%以上は、ブロイラーと言ってよいそうだ。
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